目ですが、無事 月曜には 見た目 わからないくらいになりました。
本日。。。
9年前の 8月1日は 私のお母さんの命日です。
9年前 私は 嫁いだ山形で なじめず
毎日 地元に帰りたい。。。。
と 泣く日々を送っていました。
おなかに 兄ちゃんができたから
無事 ふみとどまりましたけど、
ちょっと うつになりかけていたくらいで、
睡眠薬を 1回 飲んだりしたところで
兄ちゃんを みごもっていることが わかり
“毎日 泣いてたらあかん!” と思いを切り替えることができました。
2月出産予定で、1月くらいに里帰り出産するのに
もう 里心がついてしまって、確か 12月くらいに
帰ってきてしまった気がする。。。
しかも、お腹大きいのに
産まれても 戻りたくない。。。
なんなら このまま 離婚。。。くらい 思ってた気がする。
で、結局 両方の両親には
心配かけないように 言ってなかったのに
初めて 打ち明けた。
話し合いの結果 元旦那の両親が
「どこででも 元気にやってくれるなら」
と 言ってくださったので、はれて 地元に戻ることができた。
いま 住んでいる実家から クルマで15分くらいの
団地に 引越し。
やっと 心の平安を 取り戻した。
無事 出産。
2月に産んで、3月いっぱいは 実家にいた。
いわゆる 普通の親孝行ができた。
兄ちゃんの 風呂をいれてもらったり(沐浴してもらったり)
添い寝してもらったり。
そのときは こんな日は これからも続くと思ってたので
さして 感謝してなかったのに。
夜中とか 何回か起きて おっぱいとかしてたので
普通に イライラし、特に おっぱいが うまくできず
血だらけになりながら 泣きながらおっぱいをあげてたので
私のイライラも 最高潮になり あたったりしてたなあ。。。。
4月から 団地に戻って 過ごした。
いまから考えると 唯一の その団地で
ゆっくり過ごした 期間だったなあ。。。
ほんの15日間くらいだったけど。
兄ちゃんの誕生日から ちょうど2ヵ月後
4月中旬 いきなり 電話がかかってきた。
確か お父さんから。
お父さんと 電話で話すなんてことなかったから
「何事?!」と 思った覚えが。
お母さんが 入院することになった。
ほんとに 寝耳に水。
え? だって、3週間ほど前まで 普通に元気やったやん?
そこからの 記憶が あんまり 明確ではないんだけど、
次に覚えてるのは 弟と私の ふたりで
病院の先生に話を聞いたシーン。
別室に 私たち 子供(もう 大人だけど)が呼ばれて、
こんなん 絶対 いい話なわけない。。。。と。
ドラマみたい。とか かなり ドキドキしてた気がする。
けど、まさか 死ぬような 命の宣告をされるとも思ってなかった。
子供を産んだばかりで 人の死に
まだまだ ピンときてなかった。
先生に 癌です、と 言われ
しかも 余命6ヶ月、と 言われ
目の前が まっくらになった。
どこか 遠いところで 先生の声が聞こえていた。
まだ 精密検査をするけどとかなんとか 言われていたような。
確か 先生がいなくなってから
弟と ふたりで 子供みたいに 泣いた気がする。
ふたりで 単純に 泣いた。
ほんと 信じられなかった。
お母さんは 前向きな人で
多分 病名は 明かした方がいい。
けど、余命は とりあえず 告げられなかった。
お母さんは 私が子供の頃から 夢があった。
私が 子供の頃から 聞かされていた。
「お母さんな、いつか 自分の店を出したいねん。
採算度外視でいいねん。
自分の手作りの服を 売るねん。」
だから 私の子供のときの服は お母さんの作った服が多かった。
子供のときの私は これまた 市販の服のがいいのに。。。くらいに
思ってた 親不孝な子だったかも。
けど、夢は夢でなく ほんとに着々と 準備を始めてた矢先だった。
ちょうど 私が 子供を産んで 実家にいた3月末で
長年 勤めていたパートが 定年になって
皆に 送別会もしてもらって
次は 自分の店を 出す準備に とりかかっていた。
店の包装紙、レジ、店の看板。。。
服につける タグ。
ほんとに するんや。
お母さん すごいな〜
と 思ってた矢先。
余命6ヶ月なんて 言えなかった。
癌と戦って 店を出すんだ と思ってもらいたかった。
だから ずっと
「お母さん ありがとう」が 言えなかった。
なんか お別れの言葉みたいじゃない?
気付いてしまう、と思ったら
一番言いたかった言葉なのに 言えなかった。
はっきり 覚えてないけど、
ゴールデンウィーク明けくらいから?
転院した。
それまでは 団地からも近い 市民病院だったけど、
成人病センターみたいなところへ。
クルマで 3,40分くらい かかった。
けど、産まれて 3,4ヶ月の 兄ちゃんを連れて
お父さんを クルマに乗せて 毎日 通った。
寝不足が 続いてたから、
運転しながら かなり 眠かったのを思えてるなあ。
で、いまから考えたら 成人病センターなら
そんな 菌とか 大丈夫だったと思うんだけど、
そんな 赤ちゃんの兄ちゃんを 病院内に入れるのは。。。と
お父さんと 交代で 庭のようなところで
兄ちゃんを ベビーカーに乗せて
ひとりが 兄ちゃんを見ていて、
もうひとりが お母さんの病室へ行った。
そんなだから おっぱいも そんなに出ないようになり、
何回かは ミルクになった。
あれは 市民病院のときだったかな?
一度だけ 兄ちゃんを見てみると
外に出てきたことがあるなあ。
そうやんな、お母さん 生後1ヶ月くらいから
兄ちゃん 見てないもんな。
毎日 病院に連れてきてるのに。
記憶は途切れ途切れだけど、
看護師さんの 詰め所の辺りで
七夕の 笹があったので 7月。
その頃は もう そのすぐ近くのナースステーションの
笹飾りすら 見に行けない状態だった。
けど、まだ 話はできた。
でも 話をするのも つらそうだった。
あれは 確か 6月くらい。
直木賞とかの話題があったから。
実は お母さんの弟(私にとって叔父さん)が
作家で でも ここ何十年も 書いてないんだけど
私が 小学校くらいの頃は 何作も書いていて
映画化になった作品もあったりして。
6月くらいに お母さんが ポツリと
「●くん(叔父さんのこと)、直木賞とったなあ」
と 突然 言ったので
「ウソやん?! マジで?」
と 驚いたことがある。
すぐ それは お母さんの妄想とわかり、
かなり ショックを覚えたから 覚えてる。
お母さんには 否定しなかったけど。
意識 混濁してるんかなあ。。。
なにが 現実かわからんようになってるんかなあ。
でも まだ普通に話せるときが ほとんどだったから、
「おかあさん ありがとう」
が 言える 最後のチャンスだったんだな。
けど、結局 悟られるかもと思い 言えてない。
弟一家も 7月に入ったら
弟以外は ずーっと 実家に泊り込んでくれて
皆で 毎日 病院に行ってた。
交代要員が増えたから 私も病室に 長くおれるようになり、
いつだったか 覚えてないけど
弟と 私ふたりが お母さんについてるときがあって、
そのときに ふたりで たまらんようになって
「おかあさん ありがとう」
って 言えた気がするけど
そのときは もう ちゃんと 伝わってたかどうか。。。
7月下旬くらいに とうとう 個室になり
もう 話もできない状態になった。
交代で 誰かが いっしょに病室に 泊まってた。
自分が 泊まってるときに 急変したら。。。。
ドキドキして ろくに眠れんかった。
のどが 渇くみたいで
スポンジが先についた スプーンみたいなもので
水を含ませて 口元に持っていってあげたら
しきりに 口でスポンジをしぼって飲んでた。
もう 苦しんでる お母さんに
私が してあげられるのは それくらいしかなかった。
で、必死で それをしていたら
水が もういらないというのも わからなかったので
お母さんは もう いらないのに 水を含ませてしまったみたいで
むせてしまった。
泣きそうになりながら
「おかあさん、ごめんな、ごめんな」
と 言ったのを 覚えてる。
お母さん 苦しそうに
言葉はなかったけど
「ええねんで」というように
首をふってくれた。
私が泊まるとき、
お母さんが 一番 友だちみたいに親しくしていたっぽい
看護師さんが(多分 私より若い)
いまから 考えて 多分 もう その看護師さんが
次 仕事で来るときには 会えないと思ったんでしょう、
仕事を終えて帰るときに お母さんに会いに来て
「○○さん、私ね、明日 非番やの。
帰るね」
とか なんとか 言いに来はった。
そのときに もう ずっと 息もゼエゼエ言ってるお母さんが
苦しそうながら
「ありがとうな」
と その看護師さんに 言ったのを覚えてる。
結局 やっぱり その日が その看護師さんが
お母さんと 会った最期の日でした。
もう そのへんからは 目も開けることがなくなって、
ひたすら お母さんの 苦しそうな あえぎ声だけが
病室に響いてた。
義妹ちゃんが 泊まったときに
とうとう 来てほしくなかった瞬間が。。。
夜中に 電話が鳴った。
急変。。。
そんなときも 冷静に おやじが
帰り 連れて帰れるように
シートの倒し方の 説明を読んでたかしてたのを見て
かなり 憤った気がする。
病院に 着いた。
間に合わなかった。
もう 苦しそうな声はしてなかった。
お母さんに 化粧をしてあげた。
安らかな顔でした。
あんなに 苦しそうだったのに
死に顔は かすかに 笑ってるように見えた。
こんなに 細かく 書いたことなかった。
長い文章 読んでくれて ありがとうございました。
どこかに 残しておきたかった。
ただでさえ かなり 記憶あやふやになってきてたから。
やっと ほんとの意味で
お母さんの してきてくれたこと、
お母さんの気持ち わかるようになってきたのに。
こんなとき おかあさんなら どうする?
去年 離婚したとき
おかあさんが いたら どう言ってくれてたかな?
どうしても 仕事 抜けられないとき
熱が出た子供 迎えに行ってほしいなあ。。。とか
近所の子や、友だちが
子供(孫)つれて 実家に戻ってきてたら
いいなあ。私もしたかった。。。。とか
お母さんに かなり 大きくなっても
えらそうな クチを聞いてたガキだった。
けど、短大のときくらい デカクなったのに
まだ 時々 甘えて 抱きついたりしてた。
9年 たっても 全然 恋しい。
まだ 夢にも出てきてくれない。
けど、毎日 兄ちゃんも
会ったことない チビすけも
寝る前に 仏壇で
「ばあちゃん、すみれちゃん(5ヶ月で 亡くなったふたりの弟)
ご先祖様、ショウちゃん(9年たって 増えました。ちなみにショウちゃんとは 飼っていた犬です)
今日も みててくれて ありがとう。
また 明日も みててね」
との挨拶も しっかり 日課になってて
そんな 子供たちになってくれて
私は うれしいです。
私も お母さんは 見ててくれていると思う。
で、きっと 手抜きな この家の中の
有様をみて 空から 怒ってるんでしょう。。。。